私は元自殺志願者です。しかも2回も。
これは過去の自分に宛てた手紙です。
私は人の悩みを解決するほどできた人間でもありません。
自殺をしようと思っている人がこの記事を読んでも何も変わりません。
でも自殺をするときのつらさは自分しかわかりません。
自殺を完遂し切る前に、どうにかこの手紙があのときの私に届いてくれればいいかなと思っています。
もくじ
◯人生を変えた転職
お疲れさま。
今の私は転職をして半年ぐらい経つかな。
給料が上がって金銭的な苦労は無くなったけど、そろそろ気持ちが限界になってるね。
今私がいる業界は、昔嫌になって辞めた業界だね。
給料の額面が上がることにつられて業界に戻ってしまい、その後悔で潰されそうになっているね。
◯嫌いな仕事に支配されていた
平日は4時出勤22時上がり。
しかも業務は興味が湧かなくて好きになれない。
仕事のやりがいを感じられないことに悩んでいる。
社会人一年目の私だったら「働くってこんなもんか」と言って納得できていたと思う。
でも今までやってた塾講師とバスドライバーは薄給だけど楽しかったね。
臭い言い方だけど、働いている自分がキラキラしていたね。
◯好きなことが楽しくなくなる感覚
そんな興味が湧かなくて拘束時間が長い仕事に没頭していると、自分の趣味の時間が全く取れなくなる。
今までは早起きして本を読むことがささやかな楽しみだったね。
家を出る二時間前に起きて、朝早くから読書をする。
そんな自分に酔っていたのを覚えているよ。
でも今では朝起きたら家を出なきゃいけない。
帰ってきた瞬間から寝ても4時間くらいしか寝られない。
趣味の時間を捻出できていない自分にイライラしているのを思い出すよ。
じゃあ休日に思いっきり自分の時間を取ればいいと思ったけど、本を読んでもゲームをしても映画を見ても楽しくないんだよね。
というか全く集中できなくなってる。
文字を読んでも頭に入ってこなくなって、5行くらい読んだら読みたくなくなってくる。
その頃から楽しかったことも楽しめなくなっている自分がどんどん嫌いになっていったね。
◯同僚が怒られていた
ある日同僚が怒られている姿を見て、自分の中にしこりが生まれたね。
彼はプライベートを優先させすぎていて、社長から「新人の頃に苦労しておけば、後から自分が楽になるよ」みたいな指導を受けていた。
結構キツい言い方をされていたから、業務後に「気にすんなよ」ってフォローを入れたね。
私は周りに気を配れる優しいやつだね。
で、そのときは気にしていなかったんだけど、だんだんその指導が「自分に言われたんじゃないか」って思うようになった。
私も彼と同じ頃に入社をして、まだまだ仕事を覚えている最中だった。
だからこれだけ頑張っているのに、自分もまだまだ努力が足りていないんだなって思うようになってきた。
思い返すのがしんどいくらいあのときの私は追い詰められていたね。
より残業をするようになったし、昼の休憩もほぼ取らなくなった。
人の業務を手伝うようになって、自分の仕事は自分一人で抱えるようになった。
◯辞めるではなく死ぬ
ある日急に糸が切れた。
仕事に興味が湧かない、長時間頑張っている、それでも頑張りが足りない、趣味は楽しめない、寝られない、食欲はない。
こんな生活をしているうちに、死のうと思ったね。
正確に言うとある日急に死のうと思ったというより、モヤモヤが膨らんでいって、いつのまにか目の前が暗いモヤでいっぱいになった感じ。
先に辞めるではなく死ぬと考えたのは、辞めると迷惑になるからという理由だったね。
優しいね。
でも普通に考えたら死んだ方が100倍迷惑になるよね。
そんなことも考えられないくらい追い詰められていたね。
そういえばあのときの私は坊主頭だったね。
普通に散髪に行くのが面倒だったんだけど、今思えば自傷の一種だったのかなって思う。
だからなんとなく後ろめたくて、ずっと帽子かタオルで頭を隠してたね。
◯その日がきた
人に迷惑をかけるから死ねないと思っていたんだ。
でもある日「迷惑をかけたくない」よりも「生きていくのが苦しい」が上回ってしまったんだ。
だから死のうと思ったよ。
日曜日の夜中に死のうと思ったんだ。
なんとなく太陽の下で死にたくなかった。
方法は首吊りだ。
自宅にロフトがあるから、そこにロープをかければいい。
そんな感じで考えたね。
そして月曜日に出勤しなくても迷惑のかからない日を探しまくったね。
謎の気遣いを見せる優しいやつだね。そしてバカだね。
いざ条件の整った日を見つけて、Amazonでロープも用意した。
親に向けて遺書も書いたし、失禁したとき用にペットシーツも足元に敷いた。
脳内で両親や彼女や友人に感謝も告げた。
いけ。あとは勇気を出すだけだ。
さようなら。生まれてきてごめんなさい。
◯一回目
怖かった。
ロープを用意するのと、実際に首に回すときの恐怖ってこんなに違うのか。
100倍くらい怖い。100倍じゃ効かないかもしれない。
椅子に立ってロープに首を括る。
ロープに体重を預ける。
踏ん切りがつかないから、椅子の上でつま先立ち。
体重をかけると、なんとなく視界がホワイトアウトしていく。
それが怖くて仕方ない。
実際に首が痛いのもあるけど、死がこんなに近くになったことがないから怖い。
こんなに死にたいのに、足がすくんで動けない。
こんなに死にたいのに、最後は自分で踏み切らなくちゃいけない。
それができない。
夜通し死ぬための決心をしては折れてを繰り返す。
何回も挑戦しては折れる。
何回も何回も何回も何回も…
気がつけば朝になっていた。
死ぬこともできないのかと動けないでいた。
無断出勤をした私を心配してくれて、社長と上司が来てくれた。
親に迎えられて実家に帰った。
相変わらず寝られなかったけど、母親の煮物は涙が出るほど美味しかった。
◯死ぬほど死ぬことを考えていた
とりあえず生還おめでとう。
おめでとうなのか残念だったねなのかわからないけど。
けれどもあのときの私は死ぬことしか考えてなかったね。
一刻も早く自宅に帰りたくて、父さんと母さんには「もう大丈夫」と言っていたね。
少し休んで来週からは働くよとも言ったね。
完全に嘘だったね。
親にあれだけ真っ直ぐに嘘をついたのは初めてだったかもしれない。
実家にはロープを垂らすような場所がないから、それだけで追い詰められている気がしていた。
とにかく死ななくちゃいけないと思っていた。
私の真っ直ぐな大丈夫と言う言葉を信じてくれた両親に送られ、無事に自宅に帰って来ることができたね。
早速遺書を書き直して、その日の夜にまた首をかけた。
でもやっぱり怖くなった。
何度も挑戦しては心が折れる。
全く同じパターン。
何回目かの挑戦のあと、完全に身動きが取れなくなってうずくまっていた。
首を吊るって、しようと思うだけでエネルギーを使うのかもしれない。
泣くことすらできずにじっとしていたら玄関のインターホンが鳴った。
玄関に向かうこともできなかったけど、入ってきたのは両親だった。
あのときの「大丈夫だよ。帰ろう?」という優しい言葉は今でも忘れられない。
私が部屋着とかを用意している間、両親二人で何かをしていたね。
多分あのときに遺書を読んでいたんだと思う。
二人へのお別れの遺書を。
そのときに読まれたことは今日この日まで二人からは触れられていない。
多分死ぬまで触れられないと思う。
◯両親の偉大さ
最初の2、3日は何もできなかったね。
とりあえず食事の時間になると部屋から出て来るけど、それ以外はひたすらうずくまってた。
何もしていないけどしんどかったね。
そのときは何も思っていなかったけど、両親の偉大さもそこで感じられたね。
なんで首を吊ろうとしたのかを無理やり聞くわけでもなく、かと言って腫れ物のように扱うわけでもなかった。
とにかく普段通り。
食事も無理やり食べさせるわけでもなく、私がフラフラっと犬の散歩や皿洗いをしていたときも「無理しないで」なんて止められることはなかった。
父親は勝手に趣味の映画鑑賞をしていたし、母親はその日の職場の愚痴とかを自然な感じで喋ってくれた。
実家にいた頃の、でも少し歳をとったあの頃のままの両親がそこにいたね。
陰で二人がどれだけ心配していたのかはわからないけど、少なくとも私の前では動揺を見せることなく普段通りの笑顔でいてくれた。
口で言うのは簡単だけど、それがどれだけ大変なことなのかはわからない。
今思えばそれが実家に帰って一番薬になったことかもしれない。
首を括ろうとしたことなんて後悔でしかないけど、両親の懐の深さを知れたのはよかったことだったのかもしれない。
◯休職、通院
もちろん身動きの取れないあのときの状態で仕事なんかできないから、仕事は休職させてもらったね。
一日一度の食事と、あとはひたすら部屋でうずくまっているだけ。
それでも2、3日して私の表情が変わったのか、遺書を読んだことで両親の中でスイッチが入ったのかわからないけど、病院に行かないか?と言ってくれたね。
あくまで押し付けるわけでもなく、近くにあるみたいだから行ってみない?みたいなテンションで。
そのときは死にたいと言う気持ちと同じくらい、どうにかしなきゃみたいな気持ちになっていたから、その精神科に行ってみようかなと思ったんだよね。
父親についてきてもらって、病院の待合室で問診票を書いるときに手が止まったんだ。
自覚症状を書く欄で、「死にたいと思う」があった。
それまでの「眠れない」とか「食欲がない」とかはなんとも思わなかったんだけど、「死にたいと思う」って言葉が強すぎてすぐに丸を書けなかった。
そこで初めて、「ああ、私は病気なんだな」と自覚したんだよね。
遅すぎる自覚だったね。
そこでお医者さんとやりとりをして、採血をして薬を処方してもらったんだ。
ちなみに病名は双極性障害のII型。
軽い躁状態とうつ状態の波があるんだって。
担当のお医者さんは結構なおじいちゃんで、愛想はいいけど事務的な人だった。
父親とは丁寧なやりとりをしていたけど、私には最低限の会話しかこなさない感じ。
世間では事務的な医者は嫌われがちだけど、あのときの私には合っていた。
狙っていたのかわからないけど、そのときは誰とも喋りたくなかった。
だからガツガツこちらに入り込まれても心を開かなかっただろうし、あの対応で良かったのかなと思う。
あと初診時に「精神科なのに採血をするんだなー」と思ったのを鮮明に覚えてる。
後から知ったけど、薬の副作用がないかとか、精神以外からくる症状じゃないかを調べるんだって。
私は首吊りほどじゃないけど注射が嫌いだから、採血って聞いた瞬間に帰りたかったんだ。
◯薬で精神が良くなるのか疑問だった
医者から処方された薬はちゃんと毎日飲んでいた。
自分の生真面目な性格は嫌いだったし、そんな性格だからメンタルを壊したのかなと今でも思っている。
でもその生真面目さが幸いして、薬を飲むことは忘れなかったね。
毎日真面目に薬は飲んでいたが、気持ちが前向きになっているかは謎だった。
初診時にお医者さんに言われたが、精神科の薬っていうのは何ヶ月も飲み続けないと効果がない場合もあるらしい。
医者が言うならそうなのだろう。
出された薬が効果がないと文句を言う患者様もいるようだが、その人はそれだけ薬を飲み続けたのだろうか?
そしてそれ以上に効果のある薬を知っているのだろうか?
ネットで得た知識は目の前のお医者様以上に信用できるものなのだろうか?
私は真面目だけどバカだからそんな知識はない。
愚直に言われた通りに薬を飲んでいたし、気持ちは前向きになれなくてもいいと思っていた。
母親にも「薬忘れなくてえらいね」って言われたし、その点は自分でも褒めてあげたい。
と言うか褒めてあげる。よくやっているぞ!私!
それでも気持ちを前向きにする薬の効果は感じられなかったが、眠るための薬は抜群に効いていたね。
それまでは2時間くらいしか寝られなかったが、一日の半分くらいは寝るようになった。
薬を飲んで1時間後には立っていられないくらい眠くなったから、これは確実に薬のおかげだったね。
もちろん1週間に一回、水曜日に欠かさず医者に通った。
いつも父親か母親がついてきてくれた。
二人とも働いていたのに、多分無理をしてくれていたんだと思う。
本当に感謝しかない。
はじめのうちは事務的な医者に心を開けなくて、聞かれたことしか答えられなかった。
でもだんだんと自分から必要な話もできるようになった。
「昼に寝るのが嫌なので、夜に寝られるようになりませんか?」と聞いたのを覚えている。
その間、両親はずっと後ろで私たちのやりとりを見ていた。
医者から振られたときに喋るだけ。
私が喋っているとき、ひたすら話を聞いているだけだった。
口を挟みたいと思ったことは一度や二度じゃないだろうに、本当に聞く力のある二人だった。
偉大な二人である。この二人の息子でよかった。
何回か通っているうちに一人で行かせてくれるようになった。
二人の負担を少しでも軽くしたかったし、何より昔から二人は放任寄りの教育方針だった。
私のことが嫌いなのではなく、深い愛情と信頼を感じる放任だよね。
そして医者からも快方に向かっていると言われた。
「最初は私のことを信用していない風だったけど、だんだんと声も表情も明るくなってきたね」とのこと。
まあ医者が言うからそうなのだろう。
自分で自分のことはよくわからない。
私は真面目だけどバカだから。
◯鋸山に行って景色が変わった
実家に帰って3ヶ月くらいが経っていたと思う。
一日1食しか食べられなかったものが、そのときは2食も食べられるようになった。
薬のおかげで寝られるようにもなった。
実家の犬(虎之介くん)の散歩と、皿洗いは私の仕事になっていた。
毎回虎之介くんはリードを付けるときに噛みついてきやがる。
散歩自体は乗り気のくせに。
それでも生きること自体には全く前向きになれていなかったね。
相変わらず首を吊るのは怖いけど、生きていなくてもいいなと思っていた。
そんなある日、両親から日帰り旅行の誘いを受けた。
海鮮丼が食べたいんだって。
正直乗り気じゃなかったし強要もされなかったけど、なんとなくついていくことにした。
場所は千葉県鋸南町。鋸山というところに大きな大仏があるらしい。
その前に海ほたるに行って、帰りに海鮮丼を食べて帰るプランみたい。
通院と虎之介くんの散歩以外では3ヶ月ぶりの外出。
ついていくとは言ったものの、本当に体も気持ちも重かった。
当日も割と地獄だった。
車で行ったんだけど、間違っても助手席には乗れなかった。
そして後部座席でうずくまっていたね。
平日の昼間だったんだけど、地元の友達や知り合いに見られることが嫌だった。
思春期の時に感じるような親との旅行が恥ずかしいではなく、シンプルに人の目が怖かった。
帽子を深く被って周りを見ないようにしていたね。
車が走り出したのに、「やっぱり行かない」を何度も言いたかった。
その度にその言葉を飲み込んだ。
自分の精神的なダメージよりも、両親を悲しませたくないという気持ちが勝っていたね。
そんな親思いの私はえらいよ。
そして高速道路に乗ってETCのバーが開いた瞬間、もう行くしかないんだと腹を括ったのを覚えている。
鋸山に到着したら、なんとなく人の目が気にならなくなっていたね。
知り合いがいないという安心感もあるけど、相変わらずの両親の普段通りな雰囲気に、いい意味で飲まれていたのかな。
二人を知らない人からしたら混乱すると思うけど、父親は昨日見た映画の感想を言っていて、母親は職場のムカつく部下の話をしていた。
二人ともそれぞれ全く違う話をしている。
これが我が家での日常。
普段通りすぎて、二人とも息子が病気であるということを忘れているんじゃないかな?と思ったね。
鋸山では軽い登山をした。
1時間くらい歩いたのかな?
でかい大仏自体にも感動したけど、純粋に体を動かすことが気持ちよかった。
そして日頃の運動不足がたたり、両親が死にかけていた。
二人の年齢を感じた。
親もいつか老いて死ぬんだね。
そのあとは予定通り海鮮丼を食べて帰った。
旅行をした以外は何気ない一日だったんだけど、自分の中では大きな一日だった。
何が大きかったのかわからないが、帰りの車での景色が違った。
行きの車内ではあれだけ縮こまって、周りから見えないようにしていたのに、帰りの車内では普通に外を見ることができたんだ。
高速道路を降りて地元に帰ってきても同じだった。
大仏様の力なのか、自然の力なのか、体を動かしたからなのか、薬を真面目に飲み続けたからなのか、両親の変わらない笑顔のおかげなのか。
何がよかったのかは今でもわからないけど、あの一日がなければ今でもうずくまっていたままだったかもしれない。
◯心を開ける人がいるということ
鋸南町に行った日を境に、生きていてもいいかなという気持ちになれたんだよね。
ただ職場に戻る気は更々なかったし、すぐに就職をする気もなかったね。
どうすればいいのかよくわからなかったけど、動画編集とライターという職業を知ったんだ。
パソコン一台あれば家で働けるし、相変わらず人と会うのは嫌だったから、このスキルを身につけようかなと思った。
そして3ヶ月ぶりに自宅に帰ったんだ。
もちろん両親にしっかり連絡を入れること、病院には行かなくちゃいけないから、週に一回は実家に帰ることを約束たよね。
この約束も自分からしたんだ。
こんな状態でも両親は向こうから条件を押し付けることはしなかったね。
二人の器は鋸山で見た太平洋よりも大きい。
家に帰りたかった理由は新しい仕事の勉強をすることが一つ。
そしてもう一つの理由が、彼女ができそうだったからなんだ。
笑顔の素敵な人で、私の言った話になんでも笑ってくれる。
なんとなくもの寂しくて何回かデートをしたんだけど、「あ、この人私のこと好きなんだな」ということに気がついて付き合うことにしたんだ。
まだまだ私のメンタルが不安定で、その人には大変迷惑をかけてしまった。
でも楽しく過ごせていたし、私のことをすごく理解してくれた。
後から説明するけど命も救われた。
だから付き合えたことは本当に幸運だった。
転職というのは自分で選んだ道。
でも親とか出会いとかは自分では選べない。
私は選べないものに大変恵まれている人生だと感じるよ。
◯流行りウイルスが流行る
鋸山に行ったことをきっかけに、病院は二週間に一回の通院になったね。
週に一回の帰省は変えなかったけど。
そのときの生活は自宅で勉強をして、週に一回実家に帰って病院に行く。
そして彼女と遊びに行ったり、うちに遊びにきてくれたりみたいな感じだった。
就職をしたわけじゃないから収入はなかったんだけど、ある程度の貯金はあったからそれで生活はできていたよ。
信じられないくらい体調も良くなっていって、死にたいなと思うことは無くなっていったんだ。
夜に寝られないで朝になることもなくなっていった。
相変わらず薬は真面目に飲んでいたから、やっと薬の効果が出始めたのかもしれない。
もちろん普段通りに接してくれる両親と、いつも笑顔でいてくれる彼女の存在も大きいよ。
で、そんな平和な日常を送れていたんだけど、行きつけの病院でコロナのクラスターが起きちゃったんだよね。
別に病院が悪いわけじゃなくて、あの頃は日本中でクラスターが起きていたから珍しいことではなかったんだ。
病院がそんなことになってしまったから、なんとなく通院するのを遠慮してしまったんだよね。
別にコロナにかかることが怖いわけではなかったけど、両親の年齢を考えたら、それがすごくリスクのある行動に思えたんだ。
だから両親に気を遣いすぎて、そこで通院することをやめてしまったんだよね。
その頃にはお医者さんに2週間の体調報告をして、ただ薬を処方してもらうだけの診察になっていた。
「すごく寛解に向かってるね」とも言ってもらったし。
今思うと自分の楽観さに呆れるよ。
◯自宅という天国
そんなことがあったから、そこで薬の服用もやめてしまったんだ。
しばらくは全く体調は変わらなかったよ。
薬がなくても寝られていたし、死のうと思う気持ちは全く無くなっていた。
もちろん実家に帰ることは忘れなかった。
彼女と遊ぶのもどんどん楽しくなっていったし、何よりも勉強の成果が少し出たんだ。
初めてクラウドソーシングサイトで仕事をもらって、お小遣い程度だけど自分で稼ぐこともできた。
このまま好きな人と好きなことをして生きていくんだな。
生きていくのって楽しいなって心の底から思っていたんだ。
ここまでが最初に首を吊ろうと思ってから半年の話。
◯違和感じゃない違和感
薬の服用をやめてから2ヶ月くらい経った頃、少し気持ちが落ちる瞬間も出てきたんだ。
きっかけがあるわけではないんだけど、私の場合は午前中が多かったかな。
日課になっていた朝散歩のあと、パソコンに向かってもすぐに手が動かない。
やることはわかっているのに頭が働いてくれない感覚だったね。
はじめは5分くらいで元に戻っていたよ。
だからそのときは違和感があるとも思わなかったんだ。
でもだんだんその波が大きくなっていく。
急に大きくなるわけじゃないから、違和感を感じないままいつの間にかその波に呑まれてしまったんだ。
だから最初の頭が働かない感覚も、今思い返すと違和感だったなっていうだけだよ。
あのときの私は違和感があるなんて気づいていないだろう?
そんなもんなんだよ。
◯支配されたメンタル
気がつかないうちに頭が働かない時間が増えていったんだよ。
5分が10分、10分が30分、30分が1時間。
あれだけ楽しかったパソコンに向かっている時間も、もはや楽しくない時間の方が多くなってしまったんだ。
ちょうどそのときは仕事でも壁に当たっていたし、「まあこの壁を越えればまた楽しくなるでしょ」みたいなことを考えていた。
変わらず愚直に目の前のことをやるだけだと思っていた。
今思えば順序が逆だったかもしれない。
壁に当たったから楽しくないんじゃなくて、楽しくないから壁に当たっていたのかも。
薬をやめてから2ヶ月。
気がついたら完全に元通りになっていた。
生きることに前向きになれず、死ぬことばかりを考えるようになったんだ。
8ヶ月前に首吊りをしたときの恐怖は完全に忘れていた。
むしろ生きていくことが恐怖だった。
自分が中心の生活ではなく、心の中のネガティブに支配された生活になってしまった。
◯親しい人しかいないから相談できない
もちろんあのときとは違って彼女がいる。両親との距離も近い。
相談しようと思えばいつでも相談できた。
でもしなかったんだよね。
今までは会社の人が周りにいたから、その人たちに心配をさせまいと思っていた。
今度はその相手が彼女と両親になってしまったんだ。
本当に心の近い人だけしか周りにいないと、その人たちが世界の中心になってしまうんだね。
程よく距離感の人がいれば、「この人には相談できないけど彼女になら…」という発想になったのかもしれないけど。
これはなんなんだろうね?
人に気を遣いすぎるのか、単純に消極的なだけなのか。
この他人にばかりベクトルが向く性分が変われば、そもそも心の病気になんてならなかったのかもしれないね。
◯楽しくない楽しくない楽しくない
そんなことをしているうちに、また人生が沈みきってしまったんだ。
本を読んでもYouTubeや映画を見ても楽しくない。
せっかく楽しくなってきた仕事も完全に手につかなくなってしまった。
食事は喉を通らなくなり、また眠れない日ばかりになってしまった。
食欲が湧かないから食べない。
食べないと気力がなくなる。
体に力が入らない。
座ることすら億劫になるから横になる。
喉が渇くから水は飲む。
水を飲むからトイレに行く。
それ以外は布団かソファで横になるだけ。
昼間の二時間くらいウトウトとする。
夜は寝られない。
寝られないと夜が長い。
寝られないけど眠いから布団には入る。
でも眠ることができない。
眠ることができないから余計なことばかり考える。
余計なこととは死ぬことだ。
やっぱり死のう。
もうそれしか考えられない。
◯それでも楽しいことはあったよ
ちなみに何も楽しくなくなってしまったんだけど、彼女といるときは楽しかったよね。
映画や読書が色味のないモノトーンでつまらないものに感じていたんだけど、彼女といるときは目の前が色鮮やかになったんだ。
彼女がいなくなれば生きなくちゃいけない理由もなくなるのに、どうして付き合っちゃったんだろうとも考えたね。
でもいつも楽しそうにしている屈託のない笑顔が眩しくて、本当にその笑顔に救われていたんだ。
彼女は自分の病気に理解をしてくれたけど、それでも心配をさせたくなくて本当のことは言えなかったね。
もうちょっと甘えればよかったね。
◯二回目
そのときはきてしまった。
大好きな彼女には距離を取りたいといい、両親にもしばらく忙しいから帰らないでいるよ。と伝えた。
もう死ぬことしか考えていない。
今度は会社勤めじゃないから、余計なスケジュール調整はしなくていい。
思い立ったときが吉日なんだ。
何度目かの遺書を書いた。
LINEもTwitterのアカウントも消した。
遺書以外の自分の痕跡を消したつもり。
思い残すことは何もない。
再度ロープも用意した。
ロープに首を通した。
あとは椅子を蹴っ飛ばすだけだ。
いけ。腹を括れ。
さようなら。生まれてきてごめんなさい。
◯勇気が持てなくて生還してしまう
今自分にこの手紙を書いているということは、もちろん生き残ってしまったからなんだ。
残念だったね。
二回目の自殺も踏ん切りがきかないで終わってしまった。
LINEが消えたことを心配してくれた彼女がきてくれた。
心配してくれたけど、そんなことは表に出さず、ただただ笑顔を見せてくれた。
それで心が溶けた気がしたんだ。
彼女にいてもらって、父親に迎えにきてもらった。
こんなメンタリティで彼氏の父親になんて会いたくなかったよね。
何もかも申し訳ないよ。
そして父親も母親も相変わらず普段通りだったんだ。
一応「またおかしな気になっちゃった」とは伝えた。
多分死ぬほど心配だったんだろうけど、そんな様子も見せずにただただ「生きててよかったよ」と笑ってくれた。
自分が楽になることしか考えていない私とは大違いだ。
本当に周りに恵まれていた。
◯本当はわかっていた
話は少し戻るけど、本当は死ぬ気なんてなかったんだ。
いや、正確にいうと、死にたいのは本当なんだけど、心の底で誰かに助けて欲しかった。
だってそうでしょ?
本当に死にたかったら、車でも電車でも、足のつかない方法で遠くに行けばいいんだ。
家で死のうと思ったら誰かが来てしまう
LINEのアカウントを消したら、心配になった彼女や親が来ちゃうじゃん。
自分の存在証明を消したかったら、アカウントを消さずに、iPhoneからログアウトするだけでいいんだよ。
iPhoneを水に沈めてもいいし。
GoogleやYouTube、iPhoneのアカウントを消さなかったのは、生き残ったときに不便だと思っていたからなんだ。
冷蔵庫も洗濯機も電子レンジもパソコンも処分しなかったじゃん。
また買い揃えるの大変だしね。
彼女と距離を置いたのもそういうことだよ。
別れるんだよ。本当に死にたかったら。
未練が切れないでいたんだ。
心配して来てほしかったんだ。
◯死ぬ才能がない
本当は死ぬことを止めてほしかった私。
死ぬのが怖かっただけなんだよね。
もしかしたら「眠っている間に苦しみもなく死ねる薬」があったら飲んでいたかも。
死ぬのって大体痛みとか苦しみを伴うんだよね。
そう考えると本当に死にたいのか、本当は生きていたいのか…
結局自分でもわからない。
まあでもそんな魔法のような薬は簡単に手に入らないから、また首吊りをしようとしたんだよね。
そして二回目の首吊りをする前、死ぬことについていろいろ調べていたんだ。
どうやら自殺志願者の9割は失敗してしまうらしい。
ちょっとその情報元を見つけられないから、細かい数字は出すことができないけど。
「死にてー」と思ったことがある人も分母に含まれているのかな?
情報の信憑性は今になってはよくわからん。
で、その数字を見たときに思ったんだ。
「本当に腹を括って死ぬ人って、1割の選ばれた人だけなんだ」
「次に死ぬことができなかったら、私は選ばれた人じゃないんだ」
「多分もうすぐ心配した彼女か親がうちに来る」
「誰かがうちに来たとき、まだ死ねなかったら死ぬのは諦めよう」
結局私には死ぬ才能がなかったんだ。
そして彼女が救ってくれたんだ。
だから死ぬことをやめた。
◯二ヶ月後に就職
死ぬことをやめてからはトントンと人生が動いていったよ。
結論から言うと、二ヶ月後には新しい職場で働いている。
一応首吊り未遂をした日は実家に帰って休んだんだ。
寝られはしなかったけど、とにかく体を休めた。
そして次の日には転職サイトに登録して、面接の予約を入れた。
たぶん3件くらい面接を入れたかな?
そのうちの2件で採用連絡をもらった。
親も彼女も少し休めばと言ってくれたけど、休んだらまた余計なことを考えそうだった。
貯金も尽きていたし、何よりも動けるときに動いたほうがいいなって思ったんだ。
結構大きめの会社に採用になったから、採用連絡から実際の就業まで1ヶ月くらいかかった。
だから実質、あの夜から1ヶ月で面接を3件こなして(二次面接を含めたら4件)採用をもらったんだ。
採用をもらってからの1ヶ月は何をしていたかな?
相変わらず週末は彼女と会っていて、あと取り返すように本も読んだかな。
今まで好きだったビジネス書はなんか読めなくなった。
その代わり小説を読むようになったよ。
キラキラした成功体験を見ているとヘコむんだ。
あと両親に感謝も告げたよ。
この半年間だけでなく、31年間ありがとう。
二人の元に生まれてよかった。
そんなことを言ったかな。
◯自殺にも学ぶことはあった
死のうと思ったからこそ、実際に首を吊ろうとしたからこそ、変わったことがいくつかある。
まずは親弟妹に感謝をした。
もちろん彼女にも。
両親にはストレートに世話になった。感謝も告げた。
そして弟妹にも「死のうと思ったんだよねー」と言うライトな告白をした。
「そうだったんだー」と言うようなライトなリアクションをされると思ったが、思いの外重く受け止めてくれた。
当たり前っちゃ当たり前だけど、私が思っていたより大切に思ってくれていたようだった。
あとは死ぬことが怖いこともわかった。
死のうと思ってロープを用意することは誰にでもできるが、実際に首を吊るのはよっぽど覚悟を決めた人だけだ。
私はその恐怖を乗り越えられなかった。
「今は生きることが楽しくてしょうがないです!」とは口が裂けても言えないが、あの死の恐怖を体験しなきゃいけないなら生きていたほうがマシかなと思う。
そしてこれはいいことなのかわからないが、自殺をしようとしている人を止めようと思わなくなった。
◯自殺を全否定はできない
私って、結局死ねなかったんだ。
死ぬ恐怖が勝ったんだ。
自殺をこなしてきた人って、あのときの私よりも苦しいんだ。
あのときの私だって文字通り死ぬほど苦しかった。
その恐怖を乗り越えてまで生きるのが苦しいなんて、そんなに苦いんだったら死んで楽になるのも手じゃないかな?と思ってしまう。
もちろん知り合いが死のうと思ったら止めるし、仮に知らない人でも自分を頼って相談されたらいくらでも話を聞くよ。
でも最終的に止めるかと言われたら自信がない。
「死んじゃえよ」とは言わないけど、その苦しみを聞いて「頑張って生きていこうよ」とも言えない。
自殺未遂をした人間として思ってはいない感情なのかもしれないけど、本当にそう思う。
まあせめて人への迷惑が最小限になるような努力はしてほしいとは言うかな。
◯これを読んでいる私へ
話は逸れてしまったけど、これが私が経験したこと。
もっと細かく話せるけど、無駄に長くなったり、シンプルに覚えていなかったりだからこの辺にしておく。
これを読んでいる私はいつの私だろうか。
転職に失敗して死のうとしているときかな?
一回目の未遂に失敗して実家に帰ったときかな?
薬を飲むのをやめてまた絶望しているときかな?
二回目の未遂の後の生きることに向き合ったときかな?
もしかしたら病気をしていない社会人になりたての私かもしれないし、まだ学生の頃の私かもしれないね。
一つだけこれを読んでいる私にアドバイスをさせてほしい。
自分は大丈夫だろうって思うことって結構危険だよ。
自覚なんか一つもないけど、私って意外と真面目なんだ。
昔から周りの人はそう言ってれるよね。
自分では不真面目人間だと思っているけど。
周りから言われることって結構的を射ていた。
自分の姿って意外と自分が一番わかっていなかったりもするものなのかもね。
◯もちろん病気になんてならない方がいいよ
これは私の場合に限るかもしれないんだけど、精神病って心のブレーキだったんじゃないかなって今では思うんだ。
生真面目な私は体力のある限り仕事に取り組んでしまっていた。
長い時間仕事をすることがカッコいいとも思っている。
そんな自分だから病気で倒れでもしないと、もっと派手に壊れていたのかもしれないし、大きな事故を起こしていたかもしれない。
それと病気を経験したことによって、周りの人の優しさにも気付けた。
親や彼女の偉大さに気付けたのは、病気前の自分より前進したことだったかもしれない。
だた、もちろん病気になって悪かったこともあるよ。
まずは確実に頭が悪くなった。
以前から読書が好きだったじゃない?
その読書なんだけど、以前と同じレベルの本が入ってこなくなってる。
以前読んだ本の続編や、読み直した本が意味わからなくて身にならなかったみたいなことが増えた。
集中力なのか理解力なのかはわからないけど、総合して頭が悪くなったと言っていいと思う。
そして物覚えも悪くなっている。
人の名前とかが全然覚えられない。
もともと即覚えって苦手なんだけど、特に倒れてからは覚えられていないという自覚があるよ。
ふたつ目は今でも落ち込む波が来るということ。
その波が来るたびに、自分は病気なんだという劣等感に潰されそうになる。
普段は大丈夫なんだけど、落ち込む波が来たときの周りの「頑張れ」とか「若いんだから」みたいな言葉がすごく重くなってる。
気持ちは嬉しいんだけど、心が前向きな言葉を拒否しているんだよね。
今を生きることに手一杯だから、未来を感じさせる言葉が嫌なのかもしれない。
以前はビジネス書が好きだったじゃない?
でも前向きに生きている人の本を読むのがキツくなってしまったんだ。
趣味嗜好が変わるのはいいとも悪いとも言えないけど。
一応言っておくと、もちろん周りは私を陥れようとして言っているわけじゃないし、両親や彼女は気を遣ってくれているのかそんな言葉をそもそも使わないよ。
やっぱり周りには恵まれている。
◯病気になってからのはなし
それでさっきも言った通り、これを書いている今も完全に元通りになったというわけでもないんだ。
おそらくこれを読んでいる私でもわかっていると思うんだけど、そもそも精神的な病気ってアレルギーみたいなものだと自分で認識しているよね。
たぶんその認識は間違っていないよ。
なんとなく治ったような気がしても、結局は一生付き合っていかなくちゃいけないものなんだ。
普段は死のうとなんて考えていないし、もちろん周りにもその空気感は出していない(ハズ)。
新しい職場では上司や仲間に恵まれているよ。
だから人間関係で困っていることはないんだけど、どうしても急な事故対応とかをしなくちゃいけないんだ。
フルフレックスだからその分休みを自分で調整できるんだけど、少し寝不足の日が続くと心がざわつく。
死のうとは思っていないし、食欲もある。
ただなんとなくあのときの暗い気持ちに少し近づくんだ。
でもそれも仕方のないことなのかなって思う。
ちなみに心の病気って完治とは言わず、寛解という言葉を使うんだって。
治ったと思っても、ふとしたきっかけで心がざわついちゃうんだよ。
肉離れとかと似ているのかな?
以前のようには動けないしクセになっちゃうけど、予防とか準備運動を大切にすればそんなに困らない。
そんな感じ。
まあ仮に病気より前の自分に戻っても、また似たようなことを繰り返すと思わない?
だから遅かれ早かれどこかのタイミングで、結局私の心は限界になってしまっていたと思うんだ。
そして私の場合は幸いなことに、周りの優しさのおかげで今を生きていけている。
周りの優しさがわかった今では、自分が周りに優しくしなきゃなと思っているよ。
そして以前ほどは病気だという劣等感がなくなってきたよ。
今では「病気持ちだけど、そんな自分を受け入れて生きていかなきゃね」みたいなメンタリティになっているかな。
これを読んでいる私が死にたいと思っていたら、その気持ちは尊重するよ。
勢い余って死んでしまっても恨まないよ。
でももし死に損なってしまったら、そのときは周りを頼ってもいいんだよ。
案外他人はそんな弱い自分を受け入れてくれるから。
病気になって良かったとは全然思っていないけど、文字通り死ぬような経験をしたからこそ、今をしっかり生きてもいいんだという気持ちになっているんだ。
だからこれを読んでいる私も大丈夫だよ。
自分で自分のことを受け入れられなくても、これを書いている私はこれを読んでいる私を受け入れるよ。
無理すんな。
◯それを踏まえて
また死のうと思っている。
3回目だね。
またロープも用意してしまったよ。
遺書も書いた。
なんか人間関係に疲れたんだ。
人が周りにいると孤独感を感じてしまっている。
自分が病気だと思い込みすぎて、他人に踏み込んで欲しくない。
病気だとバレたくないから私も踏み込まない。
簡単にいうとそんな感じ。
疲れた。
過去の自分になんで手紙を書いたのかというと、気持ちを整理したいのと、過去の自分に助けてほしいのかもしれない。
そもそもこんなのブログに載せんなよって感じだよね。
2回目の生還で考え方が変わったと思っていたけど、人は簡単には変われないんだね。
もし今回も生還できたらまた手紙を書くよ。
じゃあね。
彼女を大切にね。